前回触れた「静かな退職」のつづきです。ある研究者の書籍*1では、静かな退職という風潮、現代の若者たちとの向き合い方について提言されていて、それは様々あるのですが特に私が感じた点に触れたいと思います。
静かな退職に直面したとき上司が思い知るのは「まったく退職する兆しがなかったのに・・・」ある日、突然に退職を告げられるショック。なかには退職代行サービスを使って。
でもこれは、若者たちに「振る舞うこと」を強いていた結果なのだと。たとえば、上司が若者に「主体性を発揮しよう」「どんどん自ら考えてやってみて」と良かれと思い励ましたとして、そもそも主体性は人本来の気質だから、そう求められた若者に残される選択肢は「主体性を持った人のように振る舞うしかない」ことになり、「主体性演技を強いている」ことになっている。こういう普段のやりとりから既に部下である若者はホンネを隠している。
またさらに、「人の気持ちを誘導するのは傲慢」だと。若者に対して「接し方を変えてみたり、言い方を変えてみたり、環境を変えてみたり。そうやって若者を誘導しようとしても、意味はないのだ」「人材育成という名の下に人の気持ちを誘導しようなんて、ちょっとひどくないか」と研究者は言うわけです。これは、私も別の観点から同意できて、企業が行う人材育成は、その意味を19世紀まで遡ったときにコミュニケーションでどうこうする代物ではないはず。そこには、もっと職務と処遇の現実が横たわっていると考えます。
これを踏まえて、研究者の提言は様々あるのですが、中でも「ちゃんとした上司をやめよう」に感じるものがあります。たとえば私は、上司である自分がこの程度にも関わらず部下を評価、育成するなんて、とてもとても、といった声をよく聞きます。この研究者は、「間違って、ずっこけて、慌てて挽回しようとしているところを見せよう」、「部下や後輩に助けを求めてみよう」とも提言されています。「上司も素でいよう」ということでしょう。古い映画の話になりますが、私が大好きな「男はつらいよ」シリーズに登場するタコ社長と博さんの関係を思ったりします。
この書籍の締めくくりにあった、「生身の人間相手にはファスト・スキルなど通用しない、あなたの主観や共感を大事に、大切に育んで欲しい」という言葉があります。私が思うに、上司と部下の関係は労使関係の縮図だとすれば、そもそも対立と協調という矛盾する二元関係にあります。もともと立場が異なる二人だからこそ互いの主観を交り合わせて共通点を見出していく過程が必要であって、つまり上司自身の主観が求められるのだと思います。
「成長するのは部下ではない、(上司である)あなただ。」なるほど、勉強になりました。
*1 『静かに退職する若者たち』金間大介 PHP 2024